わたしは美しいピンクの魔女になりたいー「君たちはどう生きるか」と「バービー」の陰陽五行雑感

昨日、たまたま近所のシネコンの上映スケジュールが丁度良かったので、「君たちはどう生きるか」と「バービー」の二本を一気に見た。

前者は監督のネームバリューでとりあえず、後者は賛否両論の感想と批評がひしめく大騒動作品だからという理由で、映画鑑賞のモチベは完全に評価と前評判によって踊らされているのでいかがなものかとも思ったし、このタイプの異なる二作品を同日観賞するのは気力体力のカロリーを消費しそうな気がしていたけれど、奇妙なことに、両者の作品は「現実世界と架空の世界を往来することで、主人公はいのちの生き死にに思いを馳せ、自分自身の人生を選択していく」点で共通していた。

片や生死を司り時間と時空を超越した観念的な幻想世界、片や理現実世界がミラーリングされたようなピンクのプラスチックで出来たバービーランドだけど、「こちら」と「あちら」の行き来の中で、創造主に会うこともあれば、自分の先祖にまみえることもある。そして私の頭の中では「2作品を同時に摂取したら世界が陰陽五行説で説明されてしまうじゃん……」という妙な感覚に襲われる、奇妙な体験だった。

 

宮崎駿から教わるエレメントの極意

君たちはどう生きるか」は魔術的な作品だった。ホドロフスキーに近いよねって噂は聞いていたけれど、アドベンチャータイムにも近い感触があって好きだった。今までの作品を想起させる描写や手触りがあるけれど、血肉と経験すべてが本能的に組みあがって作られている感じがなりふり構わなくて純粋に受容できたというのもあるけれど、作品世界がエレメントに支配されていたのがアツかった。エレメントといっても、この作品で描かれているのは西洋の火水風土の四元素ではなく木火土金水の五行だと思う。木は生き物の脆弱さの象徴(眞人がアオサギを攻撃した木の棒は粉々に砕け、インコ大王は木の階段を切り落とす)、金はインコの包丁や剣といった殺傷のための武器、水はうつろいやすく幻影を見せるもの(偽物の母、アオサギの池、海)、悠久の象徴だがしかし「悪意」という名のもと意味が付与され念が籠り生死の現場に寄り添う土(石)、そして眞人の母の権能でもあり、破壊と守護、激情と煌めきをたたえる火……。冒頭の火の粉の描写に心奪われたけど、火のエレメントを殊更象徴的に、災禍と躍動を並立させて描いているので宮崎駿は火が好きなのかなと思って命式を調べてみたら、日干が癸で火の五行は一つも持ち合わせていなかったし、彼が一番多く持っている五行は土だった。土(=信)の多い人の人生はたしかに他者や事象に対して「悪意」があるかを見極めねばならないだろうし、宮崎駿が「よく生きる」ために必要なエレメントこそ火なのだろう。

それにしても女は聖女と魔女しか出てこない。美しい女は母という子を産む存在で、魔女はやはりおばあちゃんの形を取っていて、彼女らもチャーミングだが今回のばっちゃま達は異形に近い感じがする。キリコさんは木でできた船で波に乗り、包丁(金)も魔除け(火)のどちらも使えて、部屋の竈には魔女の大鍋が煮立っている。ワラワラを育て生まれるために送り出すのも産婆としての役目を司る魔女そのもので、でも石の要素が思い出せない。石=母と血縁に属するもののみが扱っているからかもしれない。若いキリコさんは少女時代のヒミと共に塔に迷い込んでいるけれど、ばあちゃんの人形を持っているし、老境の記憶も保持しているようなそぶりで、時間をやすやすと飛び越えているのかもしれない。キリコさんは素敵だった。

いっぽうで、夏子さんは産屋に入っていて産むために万全の準備をしていというのに、出産が「生」よりも明らかに「死」に紐付けられている。白い着物の後ろ姿と鳥たちに囲まれているさまは姑獲鳥みたいだし産屋の白い札と墓石も大概ですよ……。一緒に観ていた連れは「主人公の眞人ってサツキみたいだね」と言っていたけど、眞人は父親へのネガティブな感情は描写されず、継母の夏子を憎んでいた。たしかにこれは少女にとってのエディプスコンプレックスの定義の範疇かもしれない。失われた母を求めての物語かと思いきや、「母を認める・見出す・発見する」という帰結。なんだかんだいって、死の瞬間を息子から聞いても火を恐れない母の言葉と、「時空を超えて若いころの親に出会える」物語は好きなので、いいなあ……と思った。

しかし塔の世界の大叔父に言わせれば、世界は血縁による継承らしい。わたしは裕福でもないし子供をもうけることに興味がないので、あの物語世界では周縁化されてしまう。魔女として生きるには、婆さんになるまでエレメントを使いこなして逞しく生きるしかないみたいだ。

 

・男女二元論陰陽世界の先が見たかったバービー

「バービー」を午後に観て、こちらは大いに笑かされた。毎日海外ドラマばかり観ている私の感触としては、「ブラックミラー」のSFと「セックス・エデュケーション」の愛のある痛快ユーモアが融合したような感じで、よく見るとセックス・エデュケーションのアダムとメイヴが出演していた。

フェミニズムが描かれるとき、マチズモの解体と一致団結するシスターフッドのどちらが好きかと言われれば、私は前者のほうが好きだ。マチズモを戯画化する滑稽なユーモアに満ちた描写が娯楽として最高という趣味もあるけれど、男性に「この価値観で無理に頑張る必要はもうないんだよ」と肩の荷を下ろさせる方がより優しい気がする。フェミニズムにおいてシスターフッドの相思相愛は大事だけれど、昨今は「女である私たち」の権利主張のために、「女」の定義の線引きをしてトランス含むマイノリティ排除の流れが加速しているので(友人はそれを縄張り意識と指摘していて、的を得た表現だと思う)一致団結する女たちの描写だけでは安心できないというのが一個人としての考えだ。劇中の投票妨害方法もフェアではないという批判も目にするし、マイペースな性格の身としては、「一緒に○○しなきゃ!」の団結に熱狂することの危険性はひしひしと感じる(勿論、アクティビズムには連帯という意識が不可欠だ。不可欠だからこそ、連帯行為そのもののカタルシスに酔いすぎると、いともたやすく加害に加担する。最近のSNSはそんな感じ)。

ホワイト・フェミニズム的な映画かと言われたら、いや、主人公のバービーが人間界に行くまでの(職能や権力が豊かさを生む価値となり、老いを隠蔽し醜さを忌避する現代の資本主義ベースの理想化がはびこる)バービーランドこそホワイト・フェミニズム的なので、むしろ批判性はあったんじゃないかと思う。

でもこの映画で描かれる「バービーの実践するフェミニズム」の中に自分がいるか・自分が必要とするものかと言われたら、あまりそうじゃないな、と思った。私は人形遊びが好きだったけど子供がいないので娘に買い与えることはできないし、私の趣味は人形を制作するほうにある。グロリアは洗脳を解く魔法の言葉を言うけれど、彼女が述べた女の苦労は、彼女が言うように「自分をよく見せようとしたとき、愛されるための努力」(記憶は曖昧なので正確じゃないかも)が、どんな選択肢をとっても女を理由に否定されるということなので、自分のような「他者の視線を内面化する社会性を持てないタイプのひとりぼっち」の星の元に生まれた人間には、魔法の言葉の効き目は少ない。そして、その「視線をコントロールする社会性」という常識を持たない層にとってのフェミニズムの在り方を考えてしまう。だって、視線をコントロールして利を得る人間全般が苦手なんだもん。バービーのケンダム崩壊ライフハック、私は絶対に実践できない。

だから作中でシンパシーを感じられるのは変てこバービーとアランの2人で、変てこバービーはバービーランドにおける、いわずもがな魔女だと思う。魔女は健全な世界では忌避されて、混乱と闘争の後になってやっと権利を得られるのは皮肉じゃないか!

彼女は彼女で美しいし素晴らしい能力を持っているけれど、バービーたちのキラキラした「肩書き」とは違う。持ち主の悪影響を乗りこなした末の特殊スキルだ。彼女は素敵だけど、ピンクではなく黒を着ている。

アランという「マチズモに乗れない男でひとりぼっち属性」がいることで肩の荷を下ろせる半面、アランの描写に殊更咲かれているわけでもないので、アランのポジションについては判断に迷う。バービーと共に票を入れ、イン・シンクのメンバーと揶揄され(It's gonna be meのMVはまさにバービーだったことを思い出した。ていうか客層をバービーを買い与える親に設定してるんじゃないかこの映画!?)、怒ると拳でぶん殴る。彼の立ち位置はこうだよね、という明確な解釈を、いまいち断言できない。

アランは、ノンバイナリー的存在として強調されていて彼なりの動機と行動がもっと描かれていれば、映画に対する印象はだいぶ違っていたかもしれない。バービーの描くフェミニズムは、「人間は男と女のいずれかに割り振られている社会だから、この二者の立場と権利を同等にしましょう」なので、男女二元論を前提としての権利獲得と運用がなされている。男女のラベルを最初に貼られる現状の社会におけるルールの是正であって、最初にラベルを貼る段階の議論とは、レイヤーが違う。

陰陽説においても、男性は陽、女性は陰として語られる。私は東洋命術を嗜んでいるけれど、個人の命式を出す際に、出生時に割り振られた性別、男性女性のいずれかを一生涯のものとして設定することに抵抗がある。この性別という概念にはジェンダーがない……というよりも「出生時の性別がこの社会のジェンダーだから、あなたは何をどう考え生きていようとこうなんです」という横暴さは常にある。陰陽というのも、2つの極はあるが常に混ざり合うグレーな状態がこの世界だ。自らを、他者を、最初にどちらかの極に置いて思考することは、はたして「正しさ」なのだろうか。私はいつも悩んでしまう。性別のみならず、なんで社会の定義するものはバイナリーなんだろう。そして映画やフィクション作品の中に「これは私だ」と思える人物(勿論常にマイノリティに属するわけではないけれど)に出会えることは、なんて稀なのだろう。……いや、「自分」を探す目的で作品を鑑賞するのは、あまりにもフィクションに縋りすぎている。製作者には多様性が求められるしその責任を担う局面はあるが、鑑賞者も常に自分を探してみましょうね、なんて捉え方をする必要なんてない。そういった意味での不健康さは最近のコンテンツ受容に感じているかもしれない。

わたしはピンクの魔女になりたい。子供を持たなくても、ひとりぼっちでも、ピンクは幼少期から好きだから死ぬまで好きでいたいのだ。魔女であっても婆さんになってから褒められるなんでのもまっぴらだし、若いうちに若さの美を享受させてくれ。魔女は社会の通俗的常識に囚われないし除け者にされる誰かを排除したりしない。美しいピンクの魔女になりたい。